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ヨーロッパの太平洋への進出史

太平洋に最初に現れたヨーロッパ人はスペイン人とポルとガル人である。前者は、金、銀、新領土ないしは入植地に対する関心から、後者は、ヨーロッパからモルッカ諸島(別称 東洋の香料諸島)への航路を見出すことに関心があった。

1513年、ヴァスコ・ニュネス・バルボアが、北海や西インド諸島と対峙する南太平洋を発見するためにパナマ地峡を越えてこの大洋を見つけた最初の人物である。

1520年11月28日に フェルデイナンド・マゼランの3隻の船が南米を回って太平洋に入り、船を北西に向け 次の寄港地はグアムに向かった。その後、マゼランは、フィリッピンのセブ島で殺されたため、生き残った船員は、1522年9月にスペインに戻ったため、結局、最初の世界周航までに3年の月日を要した。

1568年、アルバロ・メンダーニャがペル―からソロモン諸島へ金を探しに到達した。

1595年、メンダーニャのソロモン諸島へ2回目の航海途次、彼は、南マルケサス諸島を発見。他方、メンダーニャの航海士、ペドロ・フェルナンデス・クイロスによる エスピリトス・サントス(ニューヘブリデス諸島中最大の島)からバヌアツ経由メキシコまでの航海は、 逆風にさらされ、そのため船は破壊され、餓死者が出るなど悪戦苦闘したが、太平洋発見上偉大な業績の一つとして位置づけられている。

16世紀は、スペイン人が、太平洋上の境界を定め、そのほかの諸島を地政学的に位置づけた世紀であった。

そして、太平洋におけるヨーロッパ人による体系的な探検は、北の大陸に対する南の大陸を探すことにあった。

17世紀は、新市場と貿易ルートを探す為、オランダの探検の時代と言われた。最初のオランダ船はスペインが開拓したルートを利用したものの、重要な発見はほとんど無かった。しかし、アンソニー・ヴァン・デイーマン(バタビア(現在のジャカルタ)総督:広い視野と目的意識の強い人物)は、1641年、東よりはむしろ西から太平洋に入るというアベル・タスマンの価値ある航海を支援した。タスマンは、ヘラクルス的な困難な仕事である地球儀上残された未知の土地を探すように命ぜられていた。何故なら、タスマンの労を惜しまない非常に正確な航海日誌が高く評価され、彼は太平洋探検家として知られていたからである。彼の観察は、地理学者に計り知れない影響をもたらしていた。そして彼は、タスマニア、ニュージーランド、トンガ、フィジの一部を西洋の知識に加えるに至った。タスマンはオーストラリアを正しく航海した最初の人物である。その後1722年に行われたジャコブ・ロゲビーンの航海は、未知の大陸発見に失敗したものの、推量による未知の地域の範囲は著しく狭まった。

18世紀に入り、英国が太平洋における探検に成功した理由は、17世紀に行われた先駆者の労を惜しまない貴重な経験によるところが大であった。1745年、英国議会は、英国船で、ハドソン湾と南太平洋の間の海峡を見つけ、航海した最初の英国人に20000ポンドを提供する法案を採択した。その結果、多くの探検家が登場し、このルートは、天候が不順で絶え間ない危険に船がさらされるケープタウン経由のルートより大いに時間を短縮できることを証明した。即ち、1766年から67年に行われたサムエル・ウオーリスの航海において、彼の2隻の船は4ケ月でマゼラン海峡を通過した。ジョン・バイロン(詩人バイロンの祖父)は、南太平洋とハドソン湾の間の航路を見つけるため、ウオーリスの命令を無視し、その代わりに 彼は、メンダーニャが発見したソロモン諸島を目指した。彼の世界一周は、わずか2年という短さで実現し、このように太平洋は探検家の湖的存在となっていった。

エンデバー号、リソルウション号、アドベンチャー号  そしてデイスカバリー号を使ってのジェームス・クックによる3回にわたる航海は、驚くべき業績を残した。啓蒙時代の落し子たるクックは数学者であり、天文学者であり、物理学者であり、そして航海者でもあった。ヨークシャ州の熟練工の息子であったクックは、英国の東海岸で営業する小さな沿岸貿易者の下で操船術を学び、その後1755年に英国海軍に参加。そして1759年にセイント・ロウエンス川の調査を行い、その結果ケベック市を発見したことにより、カナダに彼の名前が残されるに至った。その後、彼はニューファンドランドの海岸を海図に残した。1768年、エンデバー号の指揮を任された時、彼は英国海軍の准尉に過ぎなかった。しかしクックは船員の壊血病を取り除く業績を残した最初の船長であった。当時の科学者は金星の動きに関する正確な観察を必要としていた。と言うのは、もし金星が太陽の表面を通過する時を地球の反対側の地点から観測できるのであれば、その時にこそ、太陽系の規模を決められるからであった。そして、これは、航海にとって必要な惑星の動きを正しく予測することを可能とした。かくして、クックは、未知のオーストラリアの土地を見つけるべくタヒチに派遣された。タヒチに上陸して3ケ月後、彼は西に針路をとり、ニュージランドとオーストラリアの東海岸を探査し、地図を作製するため6ケ月の月日を要した。帰英して9ケ月後、クックは2回目の航海に出たが、それは未知なるオーストラリアの土地を見出すことに結論付けるためであった。リソルウション号とアドベンチャー号を引き連れてクックは地球の裏側、特に南極海を航海した最初の人物となった。1776年、クックは、太平洋から大西洋に抜ける北西航路を発見するため3度目の航海に出た。彼は喜望峰を回りニュージーランド、トンガ、タヒチに向かった。それから、1778年1月18日に現在、ハワイ諸島として知られるカウアイを発見するため北に針路をとった。ハワイで2週間過ごしたのち、彼は北アメリカの西海岸を北上したが、ベーリング海峡における氷に阻まれ、戻ることを余儀無くされている。冬の到来と共に暖かいハワイ水域に戻り、マウイとハワイの2つの大きな島に錨を下したが、1779年2月14日、クックは、予想もしなかったハワイ人の反乱により命をおとすことになる。しかし、彼は太平洋探検の巨人としてその名が歴史に残されている。クックによる探検の成果は南太平洋に英国の時代をもたらした。

いずれにせよ、18世紀に盛んになった探検は、ヨーロッパに産業革命がもたらされたことにより原材料と市場の確保が必要であることから行われるようになった。そしてアメリカ革命後、英国の植民地に対する飽くなきエネルギーが、アフリカ、インド、そして太平洋に向けられ、それに伴い白人の貿易商や入植者がコプラや綿花のプランテーションを作り、宣教師が土着民に対し、彼等のすべての慣習―食人の慣習、近隣との戦い、一夫多妻制、洋服で無く葉っぱを身に着ける慣習、カバを飲み、ビートルナッツをかむ風習などーは悪いことであることを教えた。更に宣教師は、勤勉、羞恥、倹約、節制、服従という観念を教えた。禁欲的かつ厳しい規律を求めるキリスト教は太平洋に多くのタブーとすべきことを浸透させて行った。

1797年、ロンドンからタヒチに初めて宣教師が入り(タヒチ人を改宗させたのは1815年以降になる)、1823年にクック諸島、そして1830年にサモアにプロテスタント教徒が入り、1822年にはトンガに、1835年にはフィジーにメシジスト教徒が入り布教を開始。ポリネシアに最初のカソリックの宣教師が着いたのが1834年。彼等はプロテスタント教徒と布教を競い合い、島々の間に宗教的土壌の分割が行われた。他方、メラネシアでは、現地の良くない環境と指導者的人材がいなかったため、改宗と商業化が実現するのに更に数十年を要した。

太平洋におけるヨーロッパ人の最初の入植地は、オーストラリア(1788)とニュージーランド(1840)であった。次いでフランスがタヒチーポリネシア(1842)とニューカレドニア(1853)を入植地とした。中央アメリカを横切るための運河が既に提案されていたこともあり、この運河を通過しオーストラリアとニュージーランドへ行く際、タヒチは立ち寄れる潜在的港とみなされていた。ニューカレドニアは、最初は犯罪者用植民地として使われたが、1870年代になるとニッケル採掘場として使われるようになった。1880年代にはフランスがタヒチ付近の島々を併合。英国は、行政上莫大な経費がかかること及び地理的に遠いということもあり、散らばる南太平洋諸島を公式に併合することに抵抗したが、1874年にフィジーに法と秩序(Law and Order)を取り入れた。1877年、西太平洋高等弁務官事務所が、英国の利益を守るため当時帰属が決まらない島々に設置された。それから、帝国主義国家ドイツの台頭と、パナマ運河の建設が行われた1884年から1900年までの間に、ドイツを含め英国、フランス、そして米国の間で併合ラッシュが太平洋で繰り返された。1899年、サモアがドイツと米国による分割統治に、トンガとソロモン諸島が英国の影響下に入った。最後に残された島はニューヘブリデス(バヌアツ)だったが、1906年にドイツに先んじて英国とフランスがニューヘブリデスを共同管轄地(コンドミニアム)とする旨宣言した。

第一次世界大戦を機に、英国は、太平洋の多くの島に対する責任をオーストラリア、ニュージーランドに移した。1914年から18年のヨーロッパにおける覇権争いにより、敗戦国ドイツの植民地(ニューギニア、サモア、ミクロネシア)は、英国と日本の管轄下に。そして南太平洋は、経済的には現在もそうであるように、オーストラリアとニュージーランドに依存しつつも、英国の湖的存在になっていた。

19世紀後半までに、太平洋における植民地の熱帯産品(コプラ、砂糖、バニラ、カカオ、果物)の多くはヨーロッパに輸出され、ニッケル、リン酸塩等の鉱物資源、そして肥料としてのグアノもまた輸出された。かかる植民地経済は、インド人のフィジーへの移民に刺激を与え、ニューカレドニアでは原住民が所有する多くの土地の譲渡が盛んになった。

第二次世界大戦は、太平洋における米国の権益を確保する上で絶好の機会を与えた。特にハワイとスペインの植民地(グアム、フィリピン)を併合して太平洋における米国の立ち位置を確保した。(太平洋戦争史は略)

1960年、国連は植民地付与宣言を採択。その結果、非植民地化の波は世界大の広がりを見せ、1962年、サモアがニュージーランドから独立。そして1960年代から1970年代にかけて、サモアを含む7ケ国の南太平洋島嶼国(フィジー、パプアニューギニア、ソロモン諸島、トンガ、ツバル、ヴァヌアツ、サモア)が英国、オーストラリア、ニュージーランドから独立。クック諸島とニウエは、ニュージーランドとの関係を維持しながら事実上の独立を達成した。フランス領であったタヒチーポリネシア、ニューカレドニア、ワリス・フツナは自治権を持っているものの、依然、フランスの強い影響下におかれている。米領サモアは、補助金を通じ米国との関係は強固である。ピトケアンは依然英国の植民地であり、トケラウは、住民の意向もこれあり、ニュージーランドの施政下にある。 イースター島はチリの古いタイプの植民地となっている。

戦後は、太平洋にも地域主義が広がり、1947年に南太平洋委員会(South Pacific Commission)がオーストラリア、英国、フランス、オランダ、ニュージーランド、米国により設立され、植民地国間の調整を図り現状を維持して行くことになった。このSPCによる会議は、太平洋における島嶼国をまとめるという効果をもたらした。1971年には新しく独立した島嶼国により南太平洋フォーラム(South Pacific Forum)が作られ、政治的、社会的問題についての検討が行なわれるようになった。1988年には、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ヴァヌアツの3ケ国がメラネシアン・スペアヘッド地域グループ(Melanesian Spearhead Regional Group)を作り、1996年4には、フィジーも参加し現在に至っている。

(出典;South Pacific Handbook ,David Stanley著)

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